HOME >>210就農までの道程

2006年04月26日

Ⅱ-1. 就農までの道程①

 さて先の章ではミニマム主義の考え方について書きましたが、ま
だ漠然と感じているかと思います。そこで実践者(自分)がどんな
ところでミニマム主義を考え、どんな農業をしているのかを書いて
いきたいと思います。

 まずは私が就農に至るまでの道。今、就農希望者が増えています
がなぜでしょう。そこには漠然とした不安がベースにあるのではな
いでしょうか。私自身がそうでした。

 私、西田栄喜(通称 源さん)は今居住地となっている、石川県で
生まれました。親父はいわゆる第2種兼業農家(農業で得る収入より
他の仕事での収入が多い)です。ここ石川では圧倒的に米農家が多
く、我が家も米一本でした。

 小さい頃から農家をする気は毛頭なく、むしろうらびれた産業と
いうイメージがありました。それよりサービス業が好きで大学に入
学したのも色々な人と会いたいためというのが大きかったよう思い
ます。

 大学時代は何にも考えずに遊び呆けていました。ただ日常の暮ら
しに問題はないが、漠然とした不安がありました。

 大学4年になり、親のコネで地元銀行への就職が決まっていたので
すが釈然とせず、面接解禁の時には逃亡するように北海道へバイク
旅行に出かけました。

 北海道で出会ったのが霧多布岬の民宿「きりたっぷ里」のオーナー
さん。その宿の売りはお寿司食べ放題。しかしその米は宿の裏で自
家栽培している無農薬のお米、卵は放し飼いの鶏のものでした。当
時(1990年)としては非常に珍しい形態だったと思います。

 オーナーは東京で寿司職人をされていたのですが、思うところあっ
て縁もゆかりもない霧多布へ移住。そんなオーナーへ「すごいです
ね~。よくそんな事が出来ましたね~」と聞いたところ「そう良く
言われます。でもそんなことを言っている人の夢は絶対に実現しな
い。動き出したら周りが付いてくる」と言われました。その言葉は
今でも忘れられません。

 そんなことがあって、北海道から大学のある静岡の三島に帰って
きてから、私が最もやりたいサービス業であったバーテンとなりま
した。

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2006年04月27日

Ⅱ-1. 就農までの道程②

 バーテン時代に今の考え方の基礎をマスターから、またお客さま
から教えていただいたよう思います。

 働いていたアフターバー石垣はホテルバーが街に飛び出してきた
がコンセプトで女性1人のお客様も多く、安心して飲めるお店でした。

 そこのマスターが厳しい方で、「水商売というのはそれだけで不
真面目な人と世間ではとらえられる。人の2倍まじめにしていて、よ
うやく普通と認められる」と口グセのように言われてました。

 またカウンター越しの距離感を教えられました。「お客を獲得し
ようとその距離を乗り越えると、双方勘違いしてしまう。店の人間
は客に合わせて分不相応な遊びに、そしてお客さんは甘えてツケを
平気でしたり、他のお客さんに迷惑をかけたりしてしまう」

 実際そうやってつぶれた店も沢山見ました。はじめてのお客様で
も常連のように安心出来る、それがサービスであると。そして客が
その店の雰囲気を作り上げるというのも分かりました。

 風来のコンセプトは「毎日食べ続けられる味と価格」です。これ
もバー石垣時代に学んだものです。

 マスターは、「サービス業のサービスとはお客さまのためでは
なく、お客さまがまた来てくれるためのものである。」とよく言
われていました。

 ここ非常に勘違いしやすいですよね。お客さまの為となると、
安くしたり、大盛りにしたりとそんな安易な方向に行ってしまい
本道からズレてしまいます。その味、その価格、そのサービスで
また来たくなる。それが真のサービス。今ではその言葉、よく分
かります。

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2006年04月28日

Ⅱ-1. 就農までの道程③

※サービス業の目的

 私は今でもサービス業の視点から農業をみています。その基礎
をバーテン時代に学びました。ではそのサービス業の目的って何
でしょう。

 バーテン時代は厳しいマスターについたおかげで色々なことを学
びました。バーテン見習いのとって憧れはシェーカーを振ること。
お客さんがいない時や自宅でよく練習しました。

 プロのバーテンは氷の溶ける量を計算してカクテルグラスぴった
りの量を作ることが出来ます。でもマスターはいつも多めに作って
くれました。それを試飲して家に帰り同じ味を出すための練習の日
々。1年後、シェーカーを振る許可をもらった時はうれしかったです
ね~。

 そんなこともあり、あちこちのバーを飲み歩いている時も最初は、
いかに本物の材料を使っているかとか、バーテンコンクールで優
勝したカクテルは・・なんてカクテルの味がその店の判断基準でした。

 しかし自分自身経験をつんでくると、そういったものも大切だ
が、ある程度の基準以上さえあれば別のところにバーの本来の目
的があるのではないかと思えるようになってきました。

 よい店は初めて行ったところでも落ち着けます。そのマスターそ
してお客さんの醸し出している雰囲気がとてもよいからです。

 それからサービス業の目的は味や価格はもちろんあるでしょうが、
それは手段である、本来の目的は「人を幸せにすること」これが真
髄ではないかと思うようになってきました。

 そして人に幸せを与えられる人はすべからくその人自体、家庭環
境を含めて幸せであると思いました。

 今になってその想いは強くなってきています。農家として農の重
要性や環境問題に立ち入ることがありますが、人に伝播していくに
はその人自身は幸せであり、幸せに見えることが肝心であると確信
しています。

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2006年05月02日

Ⅱ-1. 就農までの道程④

 バーテンも3年が過ぎたころです。お客さんもついてきてくれ相
談もされる立場になりました。そんな時にフト思ったのが「この
ままここで暮らしていてよいのだろうか」ということです。

 大学を出てそのまま静岡の三島でバーテンになった。しかもそ
のバーテンという職業はとても合っていて働いていても非常に気
持ちがいい。でもあくまでも根無し草。根無し草がそのままいつ
くことも出来るのでしょうが、この地でよいのかと悩みました。

 そうするとどこならよいのか?石川に戻るか、それとも根無し
草が許容される都会か。そんな事を考えていると何て選択肢が狭
いのだろうと思ってしまいました。

 そこで海外で住むことが出来れば、日本のどこででもやってい
けるだろうと飛躍した発想でオーストラリアに行くことに。

 そんな理由で行くのでお世話になったマスターにはとりあえず
見聞を広げるためなんて話ました。その時に「海外に行くのなら
3年、最低1年同じところに住みなさい、そうしないといいところ
か悪いところしか見ないだろう。短い期間で表面上しか見ないと
所詮オーストラリアはとか、だから日本はダメなんだ、と偏って
しまう。どんなところにもよいとこも悪いとこともある。両方感
じてこい」と言われました。

 それを聞いて、ホントいいところで修行されてもらったな~と
実感しました。

 送別会は結婚式場をかりて150名ぐらいのパーティー。そのとき
はそんなに思っていませんでしたが、今考えるとすごいことをし
てもらったんだな~と思ってます。マスターは今でも何かあると
相談にのってもらっている師匠です。

 そういえば、今は憧れの人や将来の目標とする人を持たない人
が多いとのこと。具体的な人生目標をイメージするにはそういっ
た人がいるかいないかでは大きく違ってきますね。

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2006年05月06日

Ⅱ-1. 就農までの道程⑤

 ワーキングホリデーで向かったオーストラリア。どこの都市に
しようかと思ったのですが、あまり都会はいやだな~という簡単
な理由で西のパースへ。そこでまたよい出会いがありました。

 パースは世界一美しい街といわれていますが、住んでみて実感
しました。日本で都市といえばどこでもリトル東京の趣きでとし
都市計画を感じさせる統一感がなく商業主義で猥雑な感じではあ
りますが、パースでは栄えているところといえばモール(日本で
いうアーケード街かな・・)が数筋であとは緑に溢れています。

 驚いたのは街の景観を守るためと一番の中心地にあった銀行を
壊し、公園にしたこと。すごいことです。逆に実感したのが日本
はどこでも水に恵まれているということ。そんな感覚が緑を作り
上げるという感覚に現れているのかもしれません。

 さてそんなオーストラリアに住んで感じたのが真の「生活力」。
日本で生活力といえばイコールどれだけ稼いでいるかになるかと
思います。

 オーストラリアではお父さんといえば、先ず家を直せます。少
し頑張るお父さんだと家を作ります。そして車を直せる。あとガー
デニング。庭の手入れやや家庭菜園はお父さんとして出来て当た
り前ですので趣味でガーデニングというと不思議な顔をされます。

 「生活力」とは生きていける力。お父さんは家族を守る存在そ
んな当たり前のことを実感させられました。

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2006年05月08日

Ⅱ-1. 就農までの道程⑥

 オーストラリアに一年いる間はほとんどパースに住んでいました
が、2ヶ月ほどバイク(カワサキのZⅡ750を中古で購入)で旅をしま
した。その旅もほとんどタスマニアで過ごしました。

 パースからタスマニアに行くにはまずアデレードに行かなければ
ならないのですが、その間にあるのが世界一長い直線があるナラボー
平原。その直線道路の長さがなんと3000km。大変というより忍耐力
さえあればというツーリング。

 驚いたのはその間、いっさい川がなかったということです。その
かわり道路に沿って太いパイプが通っていました。最初石油のパイ
プラインかと思っていたのですが、水のパイプラインとのこと。
3000kmも続く水のパイプに驚きました。

 あと実感したのが荒野の意味。日本にいる時は荒野と聞いてもピ
ンとこなかったのですが、オーストラリアでは荒・荒野・街・郊外
に農場・荒野・荒野といった感じで何もない荒野がこれでもか~と
いうぐらい広がっています。

 そういった意味で日本は荒野はなく、なんと土地の有効利用が出
来ているんだろうと思います。これも豊かな水があってのことかと
思います。

 荒野には少し草や樹はあるもののとにかく乾燥しています。日本
でキャンプする時は焚き火する時に最初火が安定するまで技術がい
りますが、オーストラリアではマッチ一本で簡単にすぐ燃え広がり
ます。しかも枯れ木でなくてもです。

 オーストラリアにいる時はまだ農業の「の」の字も意識していま
せんでしたが、日本は瑞穂の国だと改めて感じたのを覚えています。

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2006年05月09日

Ⅱ-1. 就農までの道程⑦

2006年5月9日

 タスマニア島では40ちかくあるワイナリーをバイクですべて周
りました。オフシーズンということもあり静かでしたが、その分
ワイナリーのオーナーに色々話しを聞くことが出来、試飲もたっ
ぷり。バイクの運転も何度もあきらめました。

 ワイナリーのオーナー達はそれぞれプライドがあって、目の前
に広がるぶどう畑、ワイナリーの自慢話はつきることがありませ
んでした。畑と暮らしの直結している姿はいいものだな~と思い
ました。

 そんなタスマニアの旅でしたが、バイクが故障(完全大破)し
て最後はヒッチハイクでまわることに。

 そしてヒッチハイク中に拾ってもらった農家の家に泊めてもら
いました。数日間そこで過ごさせてもらったのですが、印象的だっ
たのがとにかく自信をもっているということ。

 「俺達がいなければこの国は飢えるんだ。」「農は尊い産業な
んだ」と自信たっぷりに語ってました。

 正直その頃は農業といえば斜陽産業だと思っていたので、ショッ
クをうけたことを鮮明に覚えています。

 そして古い写真を見せてくれて「この写真を見ろ、100年前に曾
爺さんがとった農園の写真だ。小屋がなくなったくらいで風景が
変わってないだろう」とこちらも自信たっぷりに。

 変わることがよいと教えられてきたのでこの考え方の違いにも
驚きました。100年前と変わらない風景、日本にあるのかなと考え
たものです。そして農業には風景を守る産業でもあるのだな~と
その時漠然と思いました。

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2006年05月10日

Ⅱ-1. 就農までの道程⑧

 オーストラリアはほとんどパースに住んでました。1年経ち、帰国
も決まった頃、世話になったオーストラリア夫婦にビジネスビザを
とってこちらで住まないかと言われました。結局、帰国することを
選びましたが、そうやって声をかけてもらったことが自信にも繋が
り、また帰る場所がひとつ増えた思いでした。これでいざとなれ
ば何とかなる。精神的に自由でイヤなことは我慢する必要がない
んだと思えました。

 帰国してもサービス業への想いは尽ききませんでした。パースに
住んでいる間はユースホステルの受付の仕事をしていたこともあり
、それまでサービス業といえば飲食と思っていたのですが、それだ
けではないと気付かされました。

 接客業の最高峰といえばホテル。ということで帰国後は地元に戻
りホテルのフロントマンで接客を磨こうととあるホテルに面接をう
けにいきました。

 しかし幸か不幸か、偶然そのホテルの上の方に自分のバーテン時
代を知っている人がいて、支配人候補生となりました。

 フロントマンの経験は研修の半年となりましたが、おかげで人事、
経理、またパソコン業務を覚えることが出来ました。

 特に人事では苦労しました。ホテルといってもビジネスホテルの
チェーン店。ひとつのホテルに社員は15名前後、平均年齢は25歳と
いう若さ、いやいや大変でした。仕事を全力で打ち込むには人間
関係が前提にあるのだなと実感した3年間でした。

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2006年05月11日

Ⅱ-1. 就農までの道程⑨

 バーテン時代には好きな仕事をしているな~と実感がありまし
た。バーですのでお客様の悩みを聞くことも多く、中でも仕事を
辞めたいという話しも多くありました。

 仕事を辞めたい理由は給料が安いとか、休みが少ないという理
由が表向きでしたが、聞いていくとどうも根底には人間関係がう
まくいっていないのでは、と思えました。

 そんな話に相槌を打ちながらも「そんなにイヤなら辞めてしま
えばいいのに」と若気のいたりで思ったものです。

 自分がホテルの雇われ支配人となり、サラリーマンは大変だな~
と実感しました。仕事の終わりも遅くなった時、用もないのにコ
ンビに行ったりしてました。以前から添加物など食には興味はあっ
て出来るだけ避けてきたのですが、サラリーマンをやっている時
は環境やなんやなんて考える余裕はありませんでした。

 オーストラリアに行き、「いつでも帰る場所が出来た、これで
何かあっても我慢する必要がない。自由だ」なんて思っていたの
にいざ、自分がその立場になるとその職場、社会がすべてになっ
てしまうというのも分かりました。

 ホテルの支配人業自体はやりがいもあり、勉強になりました。
若い会社ですので半年ごとにホテルを移ったのですが、業績を含
め人間関係を建て直せたところもあれば、自分の力のなさを実感
したこともあります。

 何かが違うと感じながら、辞めるのに1年以上かかりました。で
もそんなサラリーマンの経験をして、よかったな~と思っていま
す。何よりそんな立場の人の気持ちを分かるようになりました。

 一歩引いてみると何でもないことなんですが、その渦中にいる
と周りは見えなくなる。日本人は与えられたことをまじめにやる
ので余計かもしれません。それが稲作北限の地で培われた労働神
事説にもとづくものだと分かったのもつい最近です。

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2006年05月12日

Ⅱ-1. 就農までの道程⑩

 地元に帰るとした時に頭をよぎったのがやはりサービス業をし
たいということとオーストラリアのことでした。

 オーストラリアでは地元意識がとても強かったのが印象的でし
た。日本の東京に行く感覚で「シドニーに遊びに行ったりする?」
とパースの人に聞いたところ「なぜそんなゴチャゴチャしたところ
に行かなきゃいけなんだ、パースの方がきれいだし行く必要がない」
と言われました。

 地元意識の根底には情報の発信が各地にあることではと漠然と
ながら考えていました。石川に帰るにあたり、石川のよいところ
特徴はどんなとこだろうと思いました。

 考えてみると日本では情報はすべて東京発になります。流行自
体は他のところで起こってもメディアにのって広がるのは東京か
らです。

 でも農業だけでは東京からは発信出来ない。そして地域独特な
ものが残されているのは農業しかないのでは。そう思って初めて
「農」を意識しました。もちろんベースにはオーストラリアで出
会った農家のこともあったかと思います。

 またサービス業ということで飲食を考えたのですが、その素材
に思いをめぐらせたとき、本当に安全で納得いくものは今の日本
では手に入れるのは難しいのではと当時思いました。自分で育て
るしかないとここでも「農」を意識しました。

 さらに一歩進めて考えると、「人は食べ物がないと生きていく
ことは出来ない。」「その食べものを育てる農は命に直結してい
る。」「人を幸せにするのがサービス業の使命だとすると農は究
極のサービス業ではないか」と思いに至りました。

 サービス業の視点、つまり命の視点でみる農業。そんなことが
出来たらと農の道を歩み始めました。

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